ヒストリー

■設立当時 日本建設企業組合として5年・・・
昭和20年、7百万を超える戦死者をだし、 国土を廃墟と化して太平洋戦争が終結しました。 町場の建築業者は戦争中、多くの者は戦場に狩り出され、 残った者も家業をすて軍需工場に徴用されるか、 「強制疎開」の建物の取り壊しに従事させられました。 終戦を迎え、ようやく本来の建物を建てる立場に復帰することができたのでした。
戦後の経済活動は、まず中小企業から起ちあがったといってよい状況でした。 しかし、大企業が再建復活されるに及び、 中小企業経営の困難性が増大していきました。戦後の民主化の波のなか、 昭和23年中小企業庁が設置され 初代長官にはのちの京都府知事蜷川虎三氏が就任しました。 翌昭和24年中小企業等協同組合法が成立、7月から施行されました。 企業組合という制度は、この法律のなかで はじめて取りいれられた制度でした。
中小企業等協同組合法の成立をうけ、 「弱い中小企業も団結をすれば大きな力になる」 「組合をつくれば金も借りられる」 「組合にはいれば給与所得者になり、自家労賃が実現できる」 などと全国で続々と企業組合が組織されました。 東京では昭和25年に5百近い組合が設立され、 翌26年には1千組合にも達しました。 全国では1万を超える数となりました。
このような状況のなか、 日本建設企業組合は昭和25年7月、 東京土建一般労働組合加盟の親方層を中心に結成されました。 当初、組合員は564名、出資金1千万円、 都内を中心に9支所に分割、営業所を配置して運営されました。 業者登録も9月2日に届出完了し、 住宅金融公庫の発足もあり、公庫住宅の受注も 新建築家技術者集団との提携により拡大されていきました。

■中部建設企業組合の設立
建設総合企業組合として発足した日本建設企業組合にとって、 事業活動の協同化は設立当初から常に追求されてきた課題でした。
昭和28年、支所完全確立後、協同化事業は支所を基礎に、 支所の特徴を生かしながらすすめられてきました。 そのような動きの中で、支所を単位企業組合として分離独立させ、 組合をいっそう発展させるという構想が拡がっていきました。
昭和30年、「6月30日を以って日本建設企業組合の営業活動を閉鎖し支所単位に発展的に改組して企業組合の強化を計る」方針を打ち出し、 新組合の設立がすすめられました。 すべての組合が7月中に創業を始め、8月には設立登記を完了しました 。
こうして、東部日建・西部建設・南部建設・城北建設・西南建設・西北建設・ 城南建設・城北建設・日建・中部建設の10企業組合が誕生しました。 各組合の設立を待って上部団体として全都建設協同組合を設立し、 平成13年に協同組合を解散するまで、 協力して運動や運営、親睦をはかってきました。
しかし、全都建設のなかまで企業組合として営業を続けているのは、 中部建設のほか、西北建設の 2企業組合だけになってしまいました。現在は、文京区本郷の事務所にて共同で運営されています。

■困難な時代でも
中部建設企業組合として60年以上たちました。 構成メンバーは時代とともに変わりましたが、 長い年月を生き延びてこれたのは、 まさしく設立の精神「協同のちから」に他ならないとおもいます。
「弱小零細企業でも団結すれば力を発揮できる」 「少ない資本でも集中すれば大きな信用となる」 「資本の集中で個々人が金策に走らず、仕事に集中できる」 個人事業主では限界があった、営業面での不利を 団結と協同のちからで乗り切ってきました。
また、組合員や従業員の労災保険・雇用保険への加入、社会保険への加入や税務署への対応など、半世紀の歴史のなかで、 ときには行政とケンカもし、 ときには穏やかにお願いをしながら、 「勤労者としての立場」の確保をはかってきました。

■新しい時代へ
設立から半世紀を過ぎ、バブルが崩壊し、建築業界が年々縮小していくなか、私たちは、新しいとりくみにチャレンジしていきます。営業所の所長や、本部事務局も世代交代をおこない、さまざまなところで問題になっている後継者問題にも、組合一丸となって取組んだ結果、着実に芽がでてきています。そのなかで、企業組合の原点、役割を再確認し、新しい世代が、新しい時代にあった組織を構築するべく、足を踏み出しています。
次の半世紀に向け、私たちは常に、働くものの立場、中小業者の視点から、環境、住居を見つめ、人とのつながりを大切に、歩んでいく決意です。